【フリーランス人生】② カメラマン人生の第一歩

カメラマンへの道のり

 

ロサンゼルスで生まれた僕は、
2歳で日本に来て、父方の祖父母と対面。

まさかの、日本語が通じない。。。

 

父親と、祖父母は話し合い、父親は東京に行き仕事をするとの事で、
僕は祖父母の元、岡山で育てられる事に決まった。

 

 

 

当時、祖父母との会話が成立しなかったと、祖父母は生前、よく思い出の話しを
していました。僕がしゃべる言葉は、

 

「Pee ! 」 意味:(ピィー。。おしっこ)

「Poo ! 」 意味:(プー。。うんこ)

「Car ! 」  意味:(カー。。車)

 

だけだったそうです。笑笑
あとは、何かを言ってるけど、何を言ってるかわからなかったと祖父母から聞いています。
それから、一言一言日本語を教えていくのですが、

祖母:トラックと教えたら
僕:「たかっちゅ」と言う。

 

祖母:ボーリングと教えたら
僕:「ピンクチュ」と言う。

 

祖母:お月さんと教えたら
僕:「ピッキーちゃんと言う。

 

祖母:自動車と言うと
僕:「Car ! 」と答える。

 

祖父母は後に、この頃の心境をこう語ってる。

「この子は馬鹿なのかと真剣に思った」と。

 

祖父母には、ホント大切に育てられましたね。父親は横浜に移住後、すぐに別の女性と結婚。
いつのまにか妹ができる。笑笑

 

 

小学校時代 〜 中学校時代

 

・小学校4年生。。。 学校でいじめられ始める。

 

・小学校4年生。。。父親も、生活が安定したとの事で、一緒に住もうかと、試しに夏休みの
1ヶ月間、父親のもと横浜に行き、新しい母親と妹2人との生活。

しかし当時の僕は、ご飯を食べるのも遅い、やる事全てがトロイ。。。それが理由で、父親と新
しい母親は夫婦喧嘩が絶えないと言う事で、直ぐに岡山の祖父母の所に戻される。

 

・中学校1年生。。。 中学生から、再度、横浜の父親のもとに移住。新しい母親方の母、僕に
とっては母親方の祖母。

この方が、僕の存在を好んでおらず、妹2人にはお小遣い。でも僕にはなし。実家での夕食には、
僕は招かれない。まぁ、色々と嫌な思いはしましたが、その分、父親方の祖母は、僕に、嫌な思い、
寂しい思いをさせないようにと、その分いろんなことをしてくれました。

 

そんな生活もつかの間、父親と、母親が離婚。
妹2人は母親に連れられ、僕は岡山の祖父母のところに戻される。

 

岡山と横浜を行ったり来たり

 

中学3年生。岡山に戻ってからかな。家にいるより、友達といたほうが楽しくなり、なんでも
分かり合えるの友達と遊びまくった。それから、結果、中途半端にグレ始めた。

今思えば、ホント中途半端だったね。自分の中では、グレたのは親の離婚のせいとか、全く
考えていなかったけど、心のどこかで寂しさとか、親の言うことに対しての反発とかあったのかな。
でも、その寂しさとか、親のことを忘れさせてくれるのが、当時の

友達だった。

 

今だから思うけど、これは親がどうのできる問題ではないと思う。

自分の気持ちに共感してくれる人とつるみたいだけ。

一緒に、ふざけんな!と言ってくれる友達と一緒にいたいだけだった。

 

そんな時に、怒ったり、暴力で押さえつけようとしても、ただ反発するだけです。親がどうにもで
きない時は、そう言った子供の気持ちがわかる第3者を置かなきゃ話しは進まないと思う。

 

たまにYoutubeで、「思春期の子供に対してこうした方がいい」と言ってる人がいるけど、
「そうじゃないだろ!」と、突っ込みたくなる微妙な意見が多いと思ですね。結局心理的なところか
ら意見を言ってるからそうなるんでしょうね。
この時期、どんな悪さをしたかを話すとキリがないかな。笑

 

中学卒業

 

中学校3年のころは、ホント遊んでばかりでしたね。
当然、受け入れてくれる高校なんてないのはあたり前。

と言う事で、学歴は、中卒決定!!

祖父が、長年勤めてきた”中古タイヤ工場”が倒産し、後に造園会社に勤め、
管理をしている公園で働いていたので、祖父の紹介で、造園会社に入社。

国道沿いの街路樹の管理もしていたので、交通整理で旗を振ってたけど、歩道を
制服を着て学校に通う同年代の姿を見て、初めて羨ましく見えた。

なんだか、作業服を着て汗まみれで働いてる自分がものすごく恥ずかしく思えみっと
もなく感じ、会社を辞める。。

自分が選んだ道なんだけどね。

 

居酒屋。

スナック。

色を転々とするようになり、暴力団事務所に出入りするようになり、絵に描いたような
展開に、見かねた祖母が、父親に相談。

 

後に、父親が横浜から岡山に迎えに来て、一緒に連れられ横浜へ行く。祖母も後を追い、
横浜へ行く。

(この間、父親とは殴り合いの喧嘩を3度ほどやりましたね。)

 

当時の僕は、パンチ頭に剃り込みバッチリ!まぁそんな人は、東京では見かけなかったね。笑
それがかっこいいと思ってやっていたのに、環境と土地が変わっただけで、別世界に感じ、自分
自身が恥ずかしく思えたのを、今でもはっきりと覚えてる。

 

これからの出会いが、僕のカメラマン人生の始まりになります。

 

父親の紹介で、友人のカメラマンを紹介された。「カメラマンになれ!と言ってるのではなく、
一緒に回って東京を見て来い」と言われ、僕も興味はあったので、一緒について回ることにした。

父の友人のカメラマンの専門分野は、商品撮影。物撮りです。実際に一緒に回ってみた感想は、
すごい地味で、テレビで見た事のあるカメラマンとは全く違う。と思った。

 

一緒に、いろんな撮影場所を回り始めて、3ヶ月くらいだったかな。

六本木のレンタルスタジオ
”スタジオアートセンター”に撮影で何度か行くことになる。

 

この貸しスタジオは老舗で、有名なカメラマンも出入りしていて、短時間貸し(1時間)をする
スタジオもあったので、タレントの撮影も多かった。テレビで見る有名人が、普通に館内を
ウロウロと歩いている光景は、驚きにしかなかったなぁ。笑笑

その時、スタジオで働く人(M氏)から

「うちで働かない?」

と声をかけられた。

 

これがきっかけで、六本木のスタジオ ”スタジオアートセンター”で働くことになった。
16歳の終わりの10月だった。

 

 

カメラマン人生の第一歩のはずが。。

 

将来的には、スタジオに入社した事が、カメラマン人生への第一歩になったわけですが、当時は、カメラマンには全く興味はなく、
俳優にすごく興味があったので、

「ここで働いていれば、声をかけられるんじゃないかな」

「どこかプロダクションの人と知り合いができるんじゃないかな」

と言った呆れるくらい、安易な考えで入社した。

 

さて、これから、本格的にカメラマン人生の始まりとなる。

 

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