【フリーランス人生】① ロサンゼルス で認知されない子として生まれる!

カメラマンへの道のり

 

こんにちは。
ロサンゼルスで生まれて、日本で育ち、またロサンゼルスに戻ってきた
カメラマンのシンと申します。

今は、ロサンゼルスで生活をしていますが、

「ロサンゼルスで住みはじめたきっかけは?」

と、日本から来た多くの方々に質問をされます。やはり活動拠点を日本
から、遠く離れたロサンゼルスに移すと言う事は、人生の選択でもあるく
らい重大な決断だし、気になるのもすごくわかりますね。

詳しく話すとホント長くなるので、
「ここロサンゼルスで生まれたので、戻って来ました!」
と、笑顔で軽く返答してますね。笑

ロサンゼルスで生まれたのですが、タイトルに認知されない子供とありま
したが、母親の父親(僕からしたら祖父ですね)に認知されなかったんです。

 

1969年
ロサンゼルス・カリフォルニア州で生まれました。僕が生まれた時、両親は学生
留学をしていました。1969年の時代に、留学をしてた言う事は、

「両親のご両家は、随分と裕福なご実家だったんですね。」

と皆が同じことを言いますね。
そりゃそうですよね。

$1が、360円時代ですもんね。

祖母から話を聞いた情報だと、母方の実家は、沖縄県那覇市にあり、
裕福なご家庭の娘だったそうです。

父方の実家は、祖父は、中古タイヤ工場で働く工場員。祖母は、裁縫職を家でやって
いる自営業。岡山にある普通の家庭です。私の父の、アメリカに留学したいと言う希望
を叶えさせるために、何年も旅行にも行かず、必死でお金を貯めたと話していました。

海外に行く+留学は、大変な時代でしたからね。

さて、僕の両親は、留学先のロサンゼルスで出会い、僕が生まれましたが、母方の父、
僕のことを認知しなかったそうです。まぁそりゃそうですね。せっかく高いお金を出し、
アメリカに留学をさせていた娘に、実家の位も違う、どこの誰だかわからない男との

間に、突然子供が生まれたと言われても、父親としては認められないでしょうね。

 

そして、更に父母には、他にもいろいろな理由もあったんでしょうね。結婚もしな
かったようです。2人が結婚をしていなかった事は、後々、日本の法務局で調べ
てわかった事です。

 

1971年
2歳の誕生日、父親に連れられ、日本に入国。父方の、祖父母が空港まで
迎えに行ったそうです。その時、スヌーピーのぬいぐるみを抱いた子供が不思議そうに、
祖父母の顔を見ていた姿は、鮮明に覚えていると祖母が言っていました。

2歳の時点で、日本語が通じなく、

「こりゃ、どえれぇ事になった!」(岡山弁)(意味:とんでもない事になった)

と、不安を隠しきれなかったそうです。
まずは、日本語のレッスンからスタート!

 

 

この時、母親の姿はなく、父親と僕の2人だけ日本に入国しました。
これから、岡山での生活が始まります。

 

【今、振り返ってみて思う事】

認知されんなかったからと言って、自分の人生で何かあったかと言うと
何もない。だから、その事を恨んだり、根にもったりした事は、一度もない。

なぜ認知してくれなかったんだよ!と恨んでも、逆恨みしても、自分の人生
が変わる事はないんだよね。

自分の人生、最後は自分で決めるしかないんだからさ。
幼少時期は、当然親が決めるんだけどね。

自分の意思で決められるようになれば、途中、軌道修正すればいいだけ。
そんなことよりも前を向いて歩くことを1番に考えなきゃ。

 

 

親の夫婦喧嘩が原因で。。。親の離婚が原因で。。。

なんて、言ってても、自分の人生のプラスにはならないよね。だったら、それはそれで、
気持ちを切り替えて、前を向いて歩くことが、1番大切なことだと思う。

 

freelance life

 

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